「カラミざかり3を読んだ後、なぜ失恋したような気分になるのか」の理由を考察 ~桂あいりの心を揺さぶる天才性~ (ネタばれあり)
※カラミざかりの個人的考察をしていきます。個人的な解釈を大いに含むため、苦手な方はご遠慮ください。
カラミざかり VOL3を読んだ後、
人はなぜ失恋したような気分になるのか
カラミざかりには、数多くのネトラレ的なシーンがあります。
vol.1の貴史、vol.2,vol.3の藤野など、
飯田里帆が
主人公以外に犯されるシーンは多々あります。
しかし、そういったネトラレシーンよりも、
vol.3、ラストたった2ページの
里帆から聞かされた性体験の回想シーンで、
僕はかつてないほど○にたくなりました。
失恋したような気分です。
それはなぜか。
それを考察すると、桂あいりという作者の、
心を揺さぶる天才性が見えてきます。
①カラミざかりの心理テクニックとは
一見カラミざかりは、
里穂が他の男に犯される姿を「ネトラレもの」として楽しむ作品に思えます。
それは間違ってはいないですが、実はその「ネトラレ要素」すらも、
vol.3、ラストの回想シーンへの布石として読み取ることもできます。
作品中、里帆が他の男に抱かれているシーンは、
主人公の高成からすると、
「飯田は今何をしてるんだろう…」状態です。
つまり、主人公である高成は、里帆の現在をなーんにも知らないわけです。
しかし、読者は違います←ここ重要。
読者に対しては「漫画」という形で、
vol.1から里帆の性的な日常は殆ど赤裸々に明かされています。
vol.1における里帆のオナニーシーンなど、
読者は「漫画」を通じて、「神の目」として、
里帆の日常や秘めたる行いを監視し続けているわけです。
里帆が他の男に抱かれたりしてると、モヤモヤとした「ネトラレ感」はありますが、
裏腹に、どこか「里帆は自分の手の内にある」という安心感を読者は感じると思われます。
なんてったって、主人公である高成より、読者の方が里帆について詳しいんですから。
しかし、最後の最後、高校時代から時間が飛んで、
とうとう読者は里帆の日常を監視できなくなります。
初めて読者は「神の目」を奪われ、
作品に突き放される体験をするわけです。
「好きな娘が今、誰と何をしているか分からない」
これほど男を不安にさせることはないと思います。
(田山花袋の「蒲団」を始め、男心理の長年のテーマかもしれません)。
vol.2より、高成はその
「好きな娘が今、誰と何をしてるのか…」という不安に苦悩し続けているわけですが、
これまで読者は「神の目」ですから、
高成の苦悩を100%理解することは出来なかったわけです。
カラミざかりが巧みなのは、
読者に「神の目」を持たせることで潜在的に安心させ、
最後の最後、「時間の経過」という形で「神の目」を奪い去ることで、
読者を高成と同じ
「飯田は今一体何をしてるんだろう…」地獄
に突き落としたわけです。
(飯田里帆に恋をしていた読者からすると、
このまま里帆の人生を「神の目」で追いかけ続けたい、
そんな心境だったと思います。)
つまりカラミざかりという作品は、
高成とともに、読者まで一緒に「失恋」する構図
になっているんですよね。
これって、最早高成ではなく、読者に対する「ネトラレ」ですよね笑
ラストシーンで、里帆のプライベートを赤裸々に聞き出せる立場になった高成は、
元々読者がいた「神の目」のポジションになりつつありますし、
読者と高成の立場が入れ替わっています。
桂あいり先生は、最初から高成ではなく、
読者である僕たちを、
メタ的に地獄に突き落とす目的を持って
この作品を描いていたのかもしれません笑
(一般的に、主人公が地獄に突き落とされる姿を読者が見せられる構図が主流ですが、カラミざかりは読者が地獄に突き落とされ、高成はある意味救われています)
②まとめ
心理学に、「コントラストの原理」というものがあります。
これは、
「二つ目に提示されたものが一つ目と異なる場合、その違いがより強力に見える」
という効果になります(ヤンキーが猫を拾うとめっちゃ優しく見えるアレです)。
vol.1からvol.3にかけて、
そこから急激に突き放して不安にさせる。
云わば、毎日一緒だった好きな娘が、ある日突然目の前から消えたような状況。
これほどコントラストの原理が効果的に使われてる演出もないと思います。
改めて桂あいり先生の怖さ、心を揺さぶる天才性を思い知りました。
では今回はここまで。
「カラミざかり番外編 2〜竹内先輩と部室〜」カラー版 前編を読む
「カラミざかり番外編〜貴史と飯田〜 カラー版」を読む(桂あいり先生のあとがき付き)
カラミざかり vol3 カラー版 後編を読む(桂あいり先生のあとがき付き)